今回の『会報バックナンバー』のアップは、新しく入会する会員に狛江稲門会の歩みを知って貰うのに何よりの資料だと思います。当方も創刊号からの頁をしみじみと感慨にふけりながら読ませて貰っております。感謝・感謝です。久し振りの「掲示板」への書き込みです――会報への思い出など書いてみることにしました――― (*)創刊号のこと―赤松啓子編集グループに、故西尾忠興さんと一緒に応援団として参加―赤松邸離れの和編集準備室で幾日も深夜まで6名で話し合いを続けました…何時も美味しい「うな重」をご馳走になったことが忘れられません。 ★創刊号のグラビア頁『スナップで綴るドキュメント』と設立総会のリポート原稿を担当。バックナンバーを見て「…夢は膨らむ。仏作って魂入れずにならぬよう、会員一同頑張りましょう。」と、原稿を結んだことを思い出しました。 (*)次いで私の胸に深く残っている執筆原稿は、亡くなられた3先輩への 『追悼原稿』です――市原進初代会長(第28号)、中島二三男:俳句サロン講師(第42号)、前川昌三顧問(第47号)の3名の大先輩で、随分お世話になり、ご3人からは何かと人生哲学の機微を私なりに吸収させて頂き感謝でした。皆さんとは、去る平成10年4月10日(金)夜6時半から開催の「第1回狛江稲門会設立準備委員会」に、西河原公民館第2学習室に集合した折が初対面でした。9時過ぎに、会議の締めには、テープを流し「校歌」を大声で斉唱。校友会から出席して頂いた野地整さん(現:大学広報課)から〜「仕事柄校歌は何回歌ったか数えきれませんが、参加者10数でしたが、準備委員会の最後に皆さんと歌った校歌は、私のこれまでの人生の中でも忘れられない『都の西北』の一つです」とのメイルを頂いたことがありますが、私も忘れ難い校歌斉唱でした。当時〜学習室使用料が無料で、資金の乏しい我々にとっておお助かりであったことが思いだされます……。 (*)あと一つの思い出は、赤松編集スタッフから「何か連載物の企画を」との要望を受けて〜第2号から書き始めたのが『青春のあの歌この歌“早稲田愛唱歌シリーズ”』だった。「早稲田の栄光」から「人生劇場:番外編」(第4号)、「早稲田小唄」(第5号)、「雄弁会音頭」(第7号)、「5万人節」(第9号)、「逍遥歌」(第12号)の6曲を紹介したところで、理由はよく分らず中断してしまいました…。昭和20〜30年代に早稲田の杜で学生生活を送った会員諸兄ならば、きっと懐かしみながら口ずさまれることでしょう…。 ★少々長々目になりましたが〜読んで 頂き、ありがとうございました。
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| Res: 会報バックナンバーを読んで・・・・・・
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私も懐かしい思いでアップされたバックナンバーを読ませていただいております。 3年間のプラハ在住中も郵便屋さんが届けてくれた会報を読んで稲門会の皆様方のご活躍を身近に感じ、勇気をいただいていました。 関根相談役のご提案で連載された「プラハからこんにちは」の原稿を書きながら海の向こうに思いを馳せておりました。 これからは異国にいてもクリックすればいつでも会報を読むことができます。 ありがとうございました。 |
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